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言葉が伝えるもの

先月、人間にひどいことをされたからなのか、人間を恐れ、威嚇し続けるネコを保護した人が、やさしく言葉をかけ続け、言葉がなくてもわかり合える可能性があると思える話と、国民の声を「真摯に受け止めます」といつも話している政治家や官僚たちが、意味とは全く違う態度を示し続けているわが国の現状を書き、「言葉とは何か?」「言葉を正しく伝える、教えることはできるのか?」など、悶々としている私の気持ちを書きました。



先日、Youtubeで伊藤雄馬さんという言語学者の話を聞いていろいろ考えさせられました。彼は、学生時代にムラブリという少数民族(タイやラオスの山岳地帯に暮らす狩猟採集民で、人口は500人前後と推測され、定住生活をする人や、森を移動しながら生活する人)の言葉を学びたいと思い、言葉がわからないまま彼らの生活に飛び込んでいきました。



言葉がわからないし、生活文化も全く違う人とどのようにコミュニケーションをとっていったのかとても不思議な話です。ムラブリ語は文字を持たない言語で、ユネスコが、「危機言語」に指定している言葉です。教えてくれる人も、テキストも何もありません。伊藤さんは「ムラブリの人たちが何を考えているのか?」ということに興味を集中して、発音をまねていったそうですが、ムラブリ語は母音が、日本語の倍もあって聞き取るのは大変でなかなかわかるようになれなかったので、彼らも話すタイ語の学習から始め、タイ語を頼りに会話をしていったそうです。



しかし、会話が成立するまでは大変です。発音と、態度(振る舞い)、場の空気、様子などから想像してゆくしかありません。そんな体験から伊藤さんは「言葉の起源は踊りだった」と言います。私はその言葉に「そうだったのか?」と思ったのです。私は「言葉を正しく理解し、正しく使えば、人とコミュニケーションが取れるはずだ!」「言葉があるのだから、人と人はわかり合えるはずだ!」とずっと思ってきたし、わかり合えないのは、どちらかが言葉の力が足りないからだ、と思ってきたけれど、とんでもない勘違いをしてきたようだと思ったのです。



例えば「お茶を飲む」という言葉を考えてみると、自分がお茶を飲んでいるときは、口はお茶を含んでいる状態なので、言葉を発することができません。ですから「お茶を飲む」という言葉は、過去または未来のことをあらわしている。言葉は、目の前のこと、いま見ている、起きていることを言葉にならない「オオオォォォー」とか「ウゥゥゥゥゥゥ」など声というかうめきのようなものしか発することができない。「言葉は事実や現実とはズレている(遅れている)もの」という説明を聞き、「言葉の起源は踊りだ!」ということが「ストン」と落ちてきました。私は「言葉」を過信や誤解してきたようです。「言葉」を発した時の心や気持ちを分かろうとしなければいけないんですよね。