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薬と共に生きる

腰部脊柱管狭窄症による足腰の激痛に見舞われてからおよそ3カ月が経ちました。幸い、現在はこれまで通りの生活をすることができるようになりましたが、狭窄しているところが良くなったから元に戻ったのではなく、痛みを感じなくなった(と言っても、時々はそれなりの痛みが襲ってきます)為に今まで通り動けているのです。今、服用している1日の薬は、神経性の痛みを和らげる薬を2回、痛みを抑える薬と胃腸の働きをよくする薬を4回です。一定の時間が過ぎると痛みを感じ始めるので、明らかに薬の効果で痛みを感じないのだと自覚しています。この薬の強さや量について、医者は「服用しながら様子を見て決めましょう。」と言っています。



ですが、患部をよくするための処方は全くありません。狭窄の原因の多くは老化にあるとのことですので、「神経が通っている脊柱管が狭くなったまま、痛みを感じて動けないことにならないように薬で調節してゆきましょう。」というのが、方針なのです。私は「薬を飲み続けるということは、薬に依存してゆくことになるということですか?」と聞くと「依存を取るか? 痛みを取るか? ということになります。」つまり、「痛みを取るか? 薬を取るか? 自分で決めてください。」と言っているのです。別に私は医者を責めているのではありません。逆に、あれだけ動けなかった身体を、ここまで動けるようにしてくれたのですから、感謝しかありませんし、正直に話してくれていると思っています。



この現実をどう受け止めればいいのか? ここから私の問題が始まったのです。これまで単純に「薬で痛みを誤魔化す」という言葉に対して、「そんな生き方は間違っている!」とはっきり言いきってきたのですが、これからは薬で誤魔化さなければ、あの言葉では表すことができない痛みと、腰が曲がった姿勢でよちよち歩くことしかできない状態で過ごすことになると考えると、即座に「薬をお願いします。」と答えます。身体がなんともないときは、「正しいこと(?)」「威勢のいいこと」が言えましたが、「とほほほほ…」という感じです。(この薬は、眠くなるので車の運転はやめています。)



この現実を受け入れ、今まで通りの生活を続けようと思っている私は、「薬とともに」暮らしてゆく道を歩むことにしました。(自分で決めたというよりそうするしかありません) 人生、「自分の意志で決められることはほとんどない」という事実をこの歳で改めて教えられています。「死ぬまで教えられることばかり」というのは本当ですね。でも、教えられている自分は「幸せ」ものです。そして、「教えられていることは」また新しい「喜び」「楽しみ」につながっています。「教えられる」というと、すぐに「先生」や「教科書」をイメージいますが、そんなものは一切ありません。『生きている現実』が先生であり、自分の身体が教えてくれるのです。『頭』は、受け入れなければならないことを整理したり、追認するために補佐的に働いてくれるだけだということを知りました。