4月から成人年齢が18歳に引き下げられた。【「大人」になるって、どういうことだろう?】という特集記事(朝日新聞 2022年4月22日付)が載っていました。3人の筆者があったのですが、その中で児童文化研究者の村瀬学さんの文章を読んで、自分が「大人になるころ」のことを思い出しました。
彼は、【「大人になる」とは一言でいうと、「法の人」になることと考えます。法的な手続きがわかる、どんな場面でも法で自分を守れる、少なくとも守れるという手触りを実感している人になることです。】と言い最後に、【人生の決定を先伸ばししたいという態度は「大人になる」ことと何も関係ありません。むしろ一流企業の社員になったとしても、上司の過酷なハラスメントから「法で自分を守る」すべを全く知らないのなら、そのほうが大人になれていないのです。】と締めくくっていました。同感です。
私たちが子どものころは、春になると必ずと言ってよいほど「ストライキ」というものがあり、労働組合〔特に国鉄(今のJR)や公共バスや、大企業、ときには、教師の組合なども〕が、賃金UPや労働環境の改善を要求して国や企業と戦っていました。ですから、働く者=労働者(今の正規社員)=労働組合というものは当たり前と感じていましたので、社会には労働基準法があり、それを使って労働者は身を護り、権利を獲得していることは知っていました。
私は、「大人になる」とは、自覚的なことであり、「少年」は、社会に一人前になってから出てゆくものだと思っていましたから、20歳という区切りが不思議でなりませんでした。ですから「成人式は、自分が「一人前」になったと思った時にすればいいんだ!」と思っていたのです。(このとき、社会から「一人前」になったと認められるのは、給料がもらえるかどうかだと思っていました)
私は、塾を始めたころ、塾生たちが社会に出たときに一番必要なのは、労働基準法だと思っていました。学校勉強ができていなくても、学校では教えていない労働基準法が読めて、意味が分かれば何とか生きてゆくことができると思っていたのです。若者に向けたわかりやすいパンフレットを見つけたとき、一人ひとりに渡せるようにコピーをして、必要な時が来れば渡そうと準備していました。しかし、一冊も使うことはありませんでした。今思えば、若者たちにとって、そういうことは、学校勉強と同じで、必要と感じる前に、ただ押し付けられるものと感じたのだろうと思います。私自身が、自分勝手に学んできたように、いつの若者も、必要に迫られたときに自然に学ぶものだということを、大人は忘れてしまうんですね。その時に必要となる基礎の学力が、少年時代に身につくように手助けするのが「大人」の役割なのだと思います。