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『0』と『零』

数学では、『0』には、何をかけても『0』と言います。九九の勉強をした人は、「おへそがないカエルは何匹捕まえても、おへそは0です」と聞いたと思います。だれもが納得した例えだと思います。その言葉の意味が、「才能がなければ、何をやってもダメなんだ!」という意味でつかわれることを時々聞きます。テストで0点だった時などは、「自分は何をやってもダメなんだ!」とショックを受けた人もいたかもしれません。一方で、「彼にはこんな才能があったんだ!」と、「無い」と思われていた才能が花開いた例もよく耳にします。



こんな時、「『0』とは何なの? ないと思っていたことは『0』ではないの?」と、不思議に感じていました。数学では「無い」ことを『0』で表し「ゼロ」と読みます。漢字では『零』と書き「レイ」と読む字があります。戦闘機の名前で「零戦」というのがあり「ゼロ戦」と言っていましたので、私は『零』もゼロと読むと思っていましたが、辞書には「レイ」しか載っていませんでした。意味は、「雨だれ」の意で、「おちる。ふる。こぼれる。小さい。少ない。わずか。」そして、「ゼロ」と付け加えられていたのです。『零』は、「無い」ことを表す文字ではなかったのです。目に見えるほどではないのかもしれませんが、わずかに「在る」のです。



数学では数を表す方法として「十進法」を使います。その時、例えば、「301」と書かれていた時の「0」は、十の位には十の棒が「無い」ことを意味しています。このとき「十の棒」はわずかにも存在していません。さらに、気になったので『在る』という言葉の意味も調べてみました。すると、「目の前に見えるとか触れて固さを感ずるとか、何らかの感じをその人に起こさせるものを認めると共に、他の人もそれを認めるだろうと期待する(信ずる)場合、また、感覚を越えたものについても、思考の対象としてこれに似た情況が考えられる場合に、そのものが『在る』という。」と書いてあります。



私の疑問は解けました。「花が咲く前の才能、つまり種子」は、ふつう目に見えるものではありません。目に見えないものは「無い」とは、簡単に言えないのです。私達が教育の現場で、体験しているメニューは人生で経験することと比べると、わずかです。学校という空間を卒業してから経験することは山ほどあります。ですから、学校を卒業してから、いろいろな才能に気が付き、花開かせた人がたくさんいます。時には、本人が気付いていないこともよくあります。才能の種子は、自分で見つけて、努力して育てることもありますが、多くは、自分以外の人から気付かされ、育てられることもよくあるのです。才能の『種子』を見つけることはなかなかできませんが、自分には「才能がない」と判断する場合がよくあるように私は、思います。大人も子どもも、自分の中にあるかもしれない才能の種子から「どんな芽が出るか」をゆっくり楽しみたいと思います。