私は、「ルールは守るもの」とずっと思ってきたことは前にも書きましたが、
「ルールを最初から守るつもりのない人たちがいる」ことを知り、最近は、「破ったほうが良いルールもある」ことを知りました。
先月のことです。総理官邸関係者から「私は核を持つべきだと思っている」という発言が飛び出したというニュースで大騒ぎになりました。
発言はあくまで個人的な見解で、「オフレコ」の場で出たものだったから、それが大きく報じられたのです。
この発言をした官僚の立場に立って考えると、「オフレコと約束したのに・・・!新聞記者が、約束を破った!」ということになります。
しかし、ジャーナリストの立場に立つと、「この記者団との懇談は、官邸の中で行われている。オフレコ
の前提だったとしても、立場がある人が、記者を前に発言しているという意味では、重く受け止められても仕方がない。(ジャーナリストの青山和弘氏)ということになる。そもそも、国民には「知る権利がある」のだから、私は、「ジャーナリストの見解が正しい」と言いたくなります。
つまり、この場合の「約束は、破ったほうが良いルールである」と言えます。
ここで、私がずっと「守ろう」と考えた「ルール」が実は、そもそも「約束を守らない相手もいる」し、
「破ったほうが良いルールもある」ことがわかってきました。普段何気なく暮らしているとき、特に意識することなく、私たちが守っている「ルール」は、たくさんあります。そして、なにか普段と違うことが起きた時に「意識させられる「ルール」があります。
いつも、私は「ルールを守る」という考えで「ルール」と向き合ってきました。私は、「ルールを作った人」に騙されたり、利用されてきたのでしょうか?
先日も、「国民保険は、加入している人たちは決められた金額(保険料)を支払わなければならないのに、
その金額が高いからと言って、ルールの抜け穴を見つけ、半額いや十分の一と、安く済ませる方法を編み出した政治家たちがいました。
「ルール(約束)」とは、何なんでしょう?本当にわからなくなりました。つまり、「わからないことが、わかったのです」。
「わかるってどういうことなんでしょう」との問いに対する答えが出たのです(?)
年末に、「歎異抄」の日めくりカレンダーを外していた時『善悪のふたつ、総じてもって、存知せざるなり。』というページに気が付きました。解説には『親鸞聖人は、いつも何が善だやら悪だやら、まったくわからないと仰せでした。
ところが、私どもは、善悪の二つをよくわかっていると思っているのではないでしょうか。
しかし、そういう私どもが苦悩しているのです。それだけからも、私どもの善、悪を計るその基準がいまだ通らないものであることはわかろうというものです。』と、書いてありました。親鸞聖人とは、1173年~1263年の人です。
約千年前の聖人が「わからない」と言っていたのです。(たまたま、我が家の菩提寺が浄土真宗だったので、春にお参りに行ったとき、歎異抄のカレンダーをもらっていました)。私にわかるはずもないことがよくわかりました。
