「どうしてルールがあるの?」という問いに、日本弁護士連合会サイトでは、「そもそも、なぜルールはあるのでしょうか? なぜルールがあるのか? を考えるには、逆に、もしルールがなかったらどうなるか? を考えてみるとよいでしょう。もし、赤信号や青信号がなくなってしまったら、いつ道路をわたってよいか分からなくなってしまいます。また、もしサッカーに「レッドカード」や「イエローカード」がなかったら、けが人が続出するでしょう。そう考えると、人々が安全で平和に暮らしていくためには、やはりルールが必要だ、ということがわかってきます。」と書かれていて、「こうした問題に正解はありません。みんなで意見を出し合い、話し合って、適切なルールを決めていきましょう。」と書かれています。平和で安全な社会では、このような説明で済むのでしょうが、「ルールを守らない、大人がたくさんいる」社会では、この説明ではとても足りません。
子どもたちは、生まれた時には既に「ルール」があって、一度も「ルールを決める話し合い」に参加したことがありません。既にあるものは、受け入れるしかありませんし、子どもたちには大人のように「守らない」という選択をすることも許されません。しかも、大人たちは、既に決められた「ルール」なのだから、子どもたちに守らせようとします。30年以上前、そんな中で痛ましいことが起きました。「校門圧死事件」というものです。お父さんお母さんは覚えている方も多いと思います。兵庫県のある高校で起きた事故・事件です。どこの学校でもやっているように、その高校でも遅刻を護らせようと指導していましたが、登校門限時刻に校門を閉鎖していたのです。そういうことをすると、時刻ぎりぎりに登校してきた生徒たちは、閉じようとする校門に向かって、全力で走り、校門を潜り抜けようとします。その学校の門扉は、鉄製で大人が全身で押さないと動かないほど大きかったので、先生は下を向き、両手で門扉を押して、全力で閉めなければいけません
下を向いている先生には、閉じる瞬間の、扉と生徒の位置関係は、目に入らなかったと推測できます。いつも、やっていることで事故は起きていなかったのに、その日は、高校1年生の女子が、門扉に頭を挟まれるという悲劇が起きたのです。そして、悲しいことに亡くなりました。
先生は、おそらくジッと時計を見ながら、「あと何分! あと何秒!」と、走ってくる生徒たちに大きな声で叫んでいたのだろうと思います。「ルールを守る」「ルールを守らせる」とはいったい何のためなのか? 先生は、一人でも遅刻にならないように! と思っていたかもしれません、逆に、「お前らいつもぎりぎりにやってきて、私に、こんなことをやらせやがって!」などと思っていたかもしれません。教育現場を知っている人たちには、よくわかる苦悶する教師たちの心理です。しかし、多くの人たちには「何のための指導なの?」「教師はいったい何をしているんだ!」など、あきれ果てたことが起きてしまったのです。
「ルールって何?」「何のためにあるの?」と考えなければいけない出来事でした。あれから、30年以上が経ちましたが、最近は、国の指導者や法の番人である役人たちの中にさえ、「ルールを守らない」人たちが現れました。今一度、考えなければいけない社会になりました。