学力の基礎と言えば「読む」「書く」「算盤(計算)」と言われて久しい。漢字は成り立ちから覚えたり、筆順を覚えると意味がよくわかると言われ、計算は数の概念をしっかり理解させ、計算の規則を正しく理解させる。私もそう教えられてきたし、そう子どもたちに教えてきました。しかし、現在は、スマホが現れ、この方法は、すっかり崩れてしまった感じがします。
私自身はこれまでに一度も携帯電話を持ったことがない(スマホなどとんでもない)ので、スマホでどんなことができるのか全くわからないのだけれど、学校勉強などできなくても、スマホが使えればすべて解決すると信じている若者(この若者とは、実は私の孫である)が現れました。そんなことを言っても、いつか困る場面に出会い、結局正しい(?)勉強をし直すことになると私は思っているのだけれど、既に社会に出て何年も働いているが、今のところ困ったことにはなっていない。
「技術が教育を超えた」社会になったのだ。「そんな勉強では、社会に出てから困ることになるぞ」という脅しはもう通じないのである。「教育とはいったい何を教えることなのか」、一から考え直さないとならなくなった。今では、英語や中国語だけではなく何カ国かの外国語も、スマホを介して理解しあえると聞いている。オリンピックのとき、日本と中国の体操チームが合同で練習している様子をニュースで紹介していた時、日本の若者と中国の若者はスマホを介して会話をしていたと説明していた。スノーボードやスケートボートなどの世界には、スマホを自在に使いこなし、世界に飛び出している若者が少なくない。一体、彼らはどこでスマホを学んできたのだろう?
そして、私が正しいと思ってきた「教育」とは、いったい何だったのだろうと思います。一方で私の目の前には、私が子どものころを受けてきた内容とほとんど変わっていないやり方、詰込み教育で苦しめられている生徒がたくさんいます。そのおかげで私は、いまだに仕事を続けることができているのだが、これでいいのか?
人間関係も、もう私が育ってきた社会とは違うものになっているし、働き方もリモートワークなどグローバル化が進み大きく変わった。社会の在り方や生活は全く新しい、これまでに誰も体験のしたことのない関係づくり、仕事づくりが必要になった。こんな社会で一緒に暮らす若者たちに、アドバイスすることができる先輩は一人もいない。老人も若者も一緒に考え、工夫してゆかなければならない。経験したことのない社会を、若者たちと一緒こつくることができると考えると、楽しみですが、その前に私が若者たちの仲間に入れてもらえるかが心配である。