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わかったこと?(その2)

先月に続き、『ケアと編集』(白石正明著岩波新書)を読んで、わかったことがありました。それは、「言葉で表現できることはとても小さい」ということです。例えば、スープから、箸でつまめる具だけを取り出して、「これがスープだ」と言うようなもので、それだけでは、目の前にあるスープがどのようなものなのか、ほとんど伝えることができていません。同じように、自然科学で表現できていることも、とても小さいものであると言えます。このことを、精神医の滝川一廣さんが「夜道で落とし物をした紳士」のたとえ話で教えてくれていました。紳士が街灯の下だけを熱心に探しているので、「そのあたりに落としたの?」と尋ねたら、「いや、明かりのないところを探しても見えないからね」と紳士は、涼しい顔で答えたと言うのです。そうなんですね。明かりがさしているところしか、私たちは見ていないんです。というか、見えていないんですよね。
 

私たちが「わかった」と言っているのは、この程度だったようです。明りの届いていないところは見えません。わからない世界がどのくらい広いのか?わからないのに、私たちは、『科学』は、正しい、すべてを解明しているはずであると、思い込まされていたのかもしれません。つまり、まだまだわからないことがたくさんあるようだけれど、「ここまでは、わかった」と言えるのが『科学』であることがわかったのです。わかることが増えれば、増えるほど、「自分はわかっていない」ことに気が付くということなのですね。
 

以前紹介したことのある、『川崎市子ども夢パーク』の西野さんが、『たまりば通信』の秋号に「そもそも『登校』という言葉をいつまで使うのかということも、引っかかってしまう。」と、書かれていました。私が、初めて学校に行ったとき、つまり、小学校は、毎日坂を上って通っていましたので、『登校』という言葉を知った時、自然に受け止めていました。帰宅するときは、坂を下るので『下校』です。でも、考えてみると、それ以降の学校は、すべて、坂道のないところにあったので、『登下校』ではなかったのに、一度も不思議に思うことなく、この言葉を使ってきました。
 

学校に行かない・行けない状態を、最初は、『スクールホビア(学校恐怖症)』と言っていたのが、『登校拒否』から『不登校』と変わってきました。21世紀になって、明かりが照らす範囲が広くなり、子どもたちの様子が、いろいろ見えるようになったので、確かに、言い換えたほうがよくなったようです。このように、「わかっていたこと」、「わかったと思っていたこと」も、時代とともに、それまで見えなかったところまで見えるようになったので、「すでにわかっていること」と断定するのではなく、もう一度見直さなければいけないんだということです。『不登校35万人過去最多』という報道がありました。今は、『学校』の意味も、「行きたければ行き、行きたくなければ行かなくてよいところ」と考えられるようにもなってきましたので、当然言葉も変わるはずと思います。